国際協力機構青年海外協力隊機関紙クロスロード2004年9月号寄稿のノーカット版です。
筆者は平成13年度一次隊、ブータン王国王立司法裁判所派遣の建築隊員OBである。
任地では最高裁判所や首都の新市庁舎のプロポーザル、地方裁判所の実施設計、現場監理の業務に携わる機会を得、また折々の旅行では各地の名刹や後述のゾンと呼ばれる建築を訪ね歩くご縁に恵まれた。
ブータンは沖縄本島とほぼ同じ緯度に九州の約1.1倍の国土を持ち、ヒマラヤの主稜から南麓にかけ海抜100mから7500mまでの高度差を持つ。南北に流れる幾多の河川により複雑な櫛型に削られた国土の中程、標高1000mから3000m程度の間に比較的傾斜の緩い乾燥した明るい谷間が東西に並ぶ。国土の南縁はインド平原から突如切り立つ急峻な断崖と急流、年間にほとんど晴れ間のない亜熱帯性の密林に覆われ、北には世界の屋根ヒマラヤの主稜を持つ陸封国である。
人口は70万程度と言われるが定かではない。東部には、東南アジア系の先住と考えられる人々が、中央、西部には時代とルートを隔ててチベットからの移住者の子孫が、南部にはイギリスの植民地政策で定住したネパール系の人々が多く住む。
迷路のようなブータンの谷々は仏教の埋蔵経典に予言されたベユルと呼ばれる桃源郷のイメージと重なり、モンゴルや中国の侵入により国を追われたのチベットの人々にとってヒマラヤ越えを購う稲作可能な新天地、隠された仏国土であり、(外国人が言わずとも)そもそもからの秘境であった。東部ブータンには古代チベット王国の崩壊後、王の兄弟が逃れ住み、永らく統治を行った伝承や遺構が残され、中世にはチベットから入植した幾派もの仏教僧団が、西ブータンを中心にゾンと呼ばれる要塞化された寺院を建て、互いに覇権を争った。ダライラマ5世がチベットで覇権を得る17世紀に、先にブータンに逃れ来たドュルック派の法主、シャブドュン、ンガワン・ナムゲルによって統一が行われ、ここに始めて国家としてのブータンがチベットからの分離独立を果たす。
約100年前には植民地化の外圧を切り抜けながら、現在の王家による再統一が東ブータンから成し遂げられた。この50年間も近代化、国際化の歩みと共にチベット文化圏の最後の砦として、仏教を中心に据えた生活規範、文化が決然と守られている。現代建築の外観も、言語や衣装と同様、伝統的な様式の保存が国是として定められている。
ブータンの伝統建築は住宅と宗教建築の二種類に尽き、さらに宗教建築は仏塔(チョルテン)と寺院、ゾンの三種に分かれる。宗教建築は外壁の上部にケマと呼ばれる赤い帯を持つ。橋や門、水車の粉引き小屋等、若干の付属屋が見られるが、この国の伝統建築は概ね上記の四種しかなく、高低複雑な地形の中で、それらの景観はまことに集落的である。
建築の構造は概ね共通であり、外壁は土を型枠内に突き固めた版築か石の半整形積み、持ち出し壁や間仕切り壁は木軸組に左官壁、床は木造の独立柱、梁、根太に松板と土を乗せ、屋根も同様のフラットルーフのタタキ仕上げに小屋組みを置き、松の長板を石で固定する。
建築のデザインやディティールも共通であり、各々が仏教的な意味合いを持つと同時に、建築の格式に応じての使い分けが厳密に定められている。これは屋根の形状や木部の持ち出し形状、文様の彩色まで徹底されている。寺院やゾンの内部では仏教的命題が象徴的なデザインの中に置き換えられ、それらが秩序立った体系をとることで仏教的世界観を体現している。
建物の外観はシンメトリーの矩形を一義として完結し、ゾンを除いては付属屋を好まない。二階以上を居室に当てる点は、塔状建築の系譜とあわせ、防御的なデザインとしても説明可能と考えられる。
都市施設的な機能は、ある規模以上のゾンの中に集約されており、歴史的に都市を持たないブータンの景観はこの点でさらに集落的である。人口集積の有無による理由ではなく、建築同士の配置関係が、曼荼羅に象徴される仏教世界観に倣い、主従の関係がクラスター状に等間隔で規定される立体的な世界観の構築を目指すとの仮説が成り立つ。(人間関係との相関も興味深い。)国の中心にある二つのゾンから、各ゾンカック(県に相当の行政区)の中心へ、更に峠や川の合流点のゾンの配置まで、この原理での説明が可能と考える。
現役の県庁として今日見られる多くのゾンはシャブドュン以降の築城とされ、国教僧伽と世俗の行政中心に加え、地域の軍事、経済、祝祭、学問、芸術の中心を担う建築である。ゾンはチベットで14世紀に完成した統治システムの拠点とされるが、国教僧伽を兼ねる点がブータンでの特徴である。
チベット文化圏の他の文芸や絵画と同様、ブータンにおける建築様式も時系列での同定や展開が困難である。史実と伝説が渾然となって互いを造り上げ、(生きている文化として当然のことながら)由緒や開祖や本尊が(文化財としての)宗教建築自体よりも本質的な価値を持ち、格の高い由来の古い寺院ほど純粋に宗教的な動機から同時代的な改修を繰り返す。
中世の末に入蔵を目指し、初代シャブドュンに面会したポルトガル人宣教師によるパロ周辺の記述があり、近世前期には西ブータンを訪れたイギリス人探検家のスケッチが残る。近世末以降は写真記録も多く、この間でのブータン建築の変容はある程度類推可能である。
古い時代ほど建築の階数が高く、プロポーションが縦長であり、時代が下るほど、木造部の量と種類が増す。
チベット建築からの分岐の点では、木造の置屋根や、版築壁の多用がどこまで遡れるかは不明である。しかし今日のブータン建築の特徴である装飾豊富な木部意匠はこの200年間でゾンや寺院の改修部分を中心に発展した。ラプセと総称される一連の木軸構造、その中のエクラ壁や花頭窓のアーチが先在するマッシブな建築様式と表情を合わせながら洗練に向かうこととなった。19世紀末からの大型住宅建築は、宗教建築との格付けでは一線を守りながらも木造部分のデザインにおいては、もはや土着的とは言えない水準まで完成されている。
1897年の震災は多くの伝統建築の損壊と同時に、木構造の技術と意匠の発展と普及に影響を与えたと想像される。その後の100年間で、広く一般住宅までブータンに特徴的な木部意匠が広まることになった。しかし今日では、表層の伝統的様式をまといつつも、インドから輸入された集合住宅が都市部の建築の主流となっている。
ブータンの伝統的な宗教建築は王立政府によって集約的に補修や改築、その許認可が行われている。文化財的な概念の芽生えや固有の文化の保持努力の現れである。同時にそこに「ブータン建築様式」と言う枠以上のデザイン上の留意が求められる点で、またそれぞれの伝統的建築物の個性、オーセンティシティに踏み込んだ技術的な建築観が求められる点で、本来地域レベルでデザインされ、それぞれの時代ごとに建造された歴史的な建築物が、今日では国レベルで画一的に改築される可能性がある。中世以降も地縁の檀家によって永らえた国教宗派以外の古刹が近年に打ち捨てられる状況もある。
世界遺産条約を批准したブータンで、今も健全に生きる独自の文化が文化財としての価値観をいかように受け入れていくのか興味深い。
筆者の赴任当時、シニアボランティアとしてもご活躍であった在ブータン15年の金子清智氏、シニア隊員として二度目の赴任中であった平山修一、向井純子の両氏、かの地の伝統建築について稀有な本格派の先輩方に多くのご教示を頂戴したことを感謝の念とあわせて記します。
平成13年一次隊 建築 末川 協
建築設計事務所主宰